ここではどのような背景で主要五カ伝が発生し推移したか解説致します。


山城伝
平安京遷都後、行政の中心として急に発展を遂げた場所である。三条宗近が987年ころに現われ山城鍛冶の開祖となり、以後様々な鍛冶が現われて山城伝を形成していった。京都は平安文化(公家文化)で日本史上、比較的安定した平和が続いた為、他の国と比べると刀工の出現は遅い。

平和であったために武器としての刀剣というより公家が儀式などに用いるアクセサリー的な要素が強く装飾に力が注がれた為と思われる。これら装飾の技法は他の地域の追随を許していなかった。よって刀剣も洗練された上品な姿格好が第一であった。反対に地方では刀身に力が注がれ優秀な武器として生み出されていった。

しかし平安末期頃になると地方豪族(武士の台頭)の勢力がまし刀の優秀性が求められるようになった。そして地方にいた優秀な刀工が名声を上げるために次々と京都に集まりだした。

鎌倉時代に入ると後鳥羽上皇の御番鍛冶制度によって地方の名工がぞくぞくと集まり刀剣の生産地になった。需要先が公家や皇族であったので山城伝の作風は優美で品格のある垢抜けしたものである。

後の時代は戦乱による衰退などあったが山城物は全時代通じて品格あるものである。

大和伝
大和国は都が平安京に移るまで日本の中心地であった為、刀剣の歴史も大変古い。古来より天国、天座が西暦700年頃にいたとなっているが有銘品がないので定かではないがおそらく朝廷お抱えの官営工房の刀鍛冶の一派であったと思われる。天国作と言われる小烏丸は平安中期頃の製作である。

次に古来より名工として名前が出るのは平安時代末期の千手院行信、重弘である。天国らと随分時代が違うがこれは都が平安京に遷都されて大和近辺が次第に廃れていったことが理由であると思われる。廃れてしまえば注文が激減する。

平安時代末期の千手院行信、重弘の在銘確実な作品は残っていないと思われる。これら千手院派が現われた理由は仏教新興政策に起因している。奈良の寺院に増強が行われて平安末期の不安定な世相も反映して大寺院は曽兵を持つに至った。これら曽兵の武器需要に答える為に再び刀鍛冶が出現した。

大和鍛冶は大和全域で作刀しているこれは各地にある寺院のもとで作刀していた証拠でもある。寺院と密接な関係を維持しながら室町中期まで大和は栄えた。千手院で最も古いと推測されるのは鎌倉時代初期の千手院と三字銘のある太刀である。

この後の鎌倉時代中期に当麻、尻懸、保昌、手掻を加えて今日では大和五派と呼び全盛を迎えた。ちなみに在銘品が少ないのは曽兵のお抱え鍛冶として収めていたので遠慮してあるいは売り物でないので銘を入れなかったことが原因である。
 
作風は実用重視で華美でなくそれが伝統として長く継承された。鎬が高く鎬幅広く、必ず柾気がある鍛え肌で刃文は直刃本位であって乱れがあっても穏やかである。ほつれ、打のけ、喰違い、砂流し、働き豊富、帽子は焼詰めが多い。地刃は冴えて沸が強い。

寺院の保護の元で非常に繁栄したが後に新興仏教と地方豪族の隆盛を迎えると、旧体制勢力である寺院との関係が崩壊して大和鍛冶は全国に分散していった。

 

備前伝
質、量とも最も優れ古刀期には2000人以上の刀工がいた。こうも備前鍛冶が繁栄した理由は良質の砂鉄の産地が近くにあり、吉井川を利用すれば容易にしかも大量に取ることが出来た。品質はおそらく日本一良質な鉄であろうと思われる。水も良く作刀に向いていた。森も豊かで炭も大量に手にいることも容易であった。

備前は政治権力から離れていたので政権の栄枯盛衰の影響を受けなかった。権力から自立していて全国に市場を持っていたためである。時代の流行を的確に捉えていたことと名工が次々に出現したことで技術が伝わっていった。こうした流れは応永位まで順調であった。

応永以降になると技術低下が見られるようになり、明との貿易用や戦国時代になると莫大な量の刀剣を製作し始めた。大量生産品であり粗悪なものである。これが数打ちもので実用刀であり美需品としては向かない。なかには入念な注文品もある。

天正18年の大洪水で大多数の刀剣関係者が死亡してしまい。復興が困難となりまた刀工が都市に住むようになったので備前にわざわざ注文する者もいなくなり、新刀期にはかつての栄光は全くみられなくなってしまった。

 
作風は丁子本位で匂い本位、焼入れ温度は五カ伝中最も低い。肌は杢目で映りがでる物が多い。すべてにおいて頃合の万人向けで過ぎるということがない。現在の国宝に指定されている刀剣の7割は備前刀である。

 

相州伝
中央から離れた関東に刀工が現われたのは遅く鎌倉に幕府が開かれてからになる。鎌倉の発展にともない需要も増加したので刀工も鎌倉に置くことが必要となった。京都からは粟田口国綱、備前からは三郎国宗と助真一派が招かれるに至った。これらの名工の下向時期は正確にわかっておらず諸説がある。軍備強化の一環として招かれたので無料の屋敷や俸禄が支給された。よって気ままに下向したわけではない。

しかし三派が協力したわけではないので技術交流などはなく共通した作風はまだなっかた。その後、国宗の子の新藤五国光が備前伝と山城伝を学び工夫をして行光に伝えてそして正宗に伝えられた。

正宗はさらに質実剛健な武士の気風に応じるためと元寇などによって明らかになった従来品の欠点を克服するために研究を重ねた。その結果、実用兼美の地刃共に強い相州伝が完成した。そして弟子の正宗十哲らによって全盛を迎えたのである。しかし鎌倉幕府滅亡に伴い衰退の一途をたどった。

相州伝は最も難しい伝法と言われており掟通りの鍛刀法をこなせるものが少なかったことも衰退の一因でもあったと思われる。戦国後期は小田原北条の勢力拡大にともなって庇護され小田原相州として繁栄する事になる。

秀吉からの恩賞に相州上位工の作が盛んに利用されるようになり、安土桃山時代に評価を上げ、新刀期に鍛錬方法は違うが復興され大いに賞賛された、そして現在でも愛好されているに至っている。

 

美濃伝
美濃伝は五カ伝の中で最も新しい。本来は大和伝の影響が強い地域であったが南北朝時代に金重が移住したことで相州伝が伝わり、南北朝時代という争乱のもと刀剣需要が多いにあり、急速に発展した。よって大和伝と相州伝の合作である。

関東と京都の中間にありなおかつ様々主要街道が通っていたことなど地の利に恵まれていたことと、争乱によって山城鍛冶が衰退したのに対し美濃国は戦場にならなかったことが大きい。応永時代以降は平和が続いたこともありそれほど発展しなかったが戦国時代になると再び凄まじい発展を遂げる。

戦国時代の主な戦場は美濃周辺であったので生産に間に合わない量の注文が来た。関市を中心として生産していたので関物となり500人の刀工がいたと言われている。ちなみに兼の字がつく刀工名がほとんである。とても統制がとれていてその仕組みは七頭制という組合制度で合議制がしかれていた。さらに7人の中から人望、腕が優れた棟梁と選出していた。

美濃伝は争乱によって発展した背景があるために多くは実用重視の大量生産品で約80%が数打ち物と推測されているが入念な注文品もある。作風は反りが浅めで無骨な実用的な物で刃文に乱れがある場合は大体尖り刃がある。また白気映りが出る物もある。

新刀期には全国に分散してほとんどの刀工に影響を及ぼした。新刀の鎬地柾目という特徴は美濃伝から受け継いだものである。