日本刀の歴史

歴史区分は刀剣史上の区分です、平安末期からの御紹介とさせて頂きます。

時代別の刀姿の変遷 各時代の典型的な姿の図です。

日本刀基礎知識集 日本刀の歴史(新刀編) 日本刀の歴史(新々刀編)


日本刀の歴史(古刀編)

古刀期 (平安時代末期~文禄4年、西暦1595年まで) 約600年間

新刀・新々刀期の2倍という600年間に及び、生産数・刀工数もはるかに多いです。しかし、戦乱による消耗や保存の不備によってかなりの数が失われており、古刀は現存する刀剣の3割~4割程度と推測されています。

平安時代末期

騎馬戦の中心の時代へと変化。馬上では鎧の重量制限が無くなる。その為、極めて防御力が高い堅固な物になる。堅い鎧を斬る為ににより強度が高く、重量を軽減できる鎬造りが考案される。鎌倉時代初期までは、元幅と比較して先幅がおよそ半分位で極端に狭くて踏ん張りのある(腰反りが高い)小切先の姿が流行する。この姿は馬上からの斬撃による衝撃を減らし、先は無反りなので刺突に優れ、鎧の弱点である関節部などの隙間を突く事を目的とした。

上品な体配は公家文化の影響であると考えられる。長さは通常二尺五~七寸位である。刃文は小乱れなどで技巧的 ではないが細かい変化があり古雅。

有名工

伯耆の安綱、備前の友成、山城の三条宗近など。

主な出来事


鎌倉時代初期 (1184~1221年 )

武士の時代となり前時代の上品な姿から剛健な姿に変化し始める。反りは、はばき元から少し上に移動し腰反りになってくる。切先もやや大きくなる。元と先の幅差が小さくなり強さが増すようになる。

刃文は意図的に変化を持たせるようになり小沸出来の小丁子乱になり技巧的となる。

この時代は後鳥羽上皇の番鍛冶が活躍した時代。上皇は倒幕計画を立て、北面西面の武士を設けさらに全国から武士を招集した。番鍛冶を設け諸国の名匠を集めて破格の待遇を与えた。この事によって刀工の地位が高まり鎌倉中期にかけて日本刀の黄金時代が到来。

番鍛冶の製作したものは味方の公家や武士に与えられたと言われている。まだ上品な姿であるが倒幕の気風に満ちた優雅で豪壮な太刀が作られた。

有名工

山城の粟田口一派、古備前一派、古一文字派など。

主な出来事


鎌倉時代中期 (1222~1289年)

この時代に武士の道徳を定めた貞永式目が制定されて質実剛健の気風が急速に全国に広まる。この気風が鍛刀に影響を及ぼした。

武家文化を反映し強さが更に強調される。反りは浅くなり、身幅広く、元と先の幅差が少ない。これにより、うつむき感がなくなって踏ん張りが少なくなり、重ねも厚めになる。 刃肉は蛤刃で猪首切先になり堅物切りにふさわしいものになる。

刃文は備前、山城の華麗な大房丁子が流行する。

備前の一文字派が全盛を極めた頃。丁子乱は丁子の花が咲いた時に似ていることから名付けられた。この頃に匂出来の作風が確立。

粟田口、三郎国宗などが一族で鎌倉に移住する。これは幕府が名工を集めて鎌倉で鍛刀させる事によって兵力増強を図ったものと思われる。後に彼らが鎌倉鍛冶の基礎となり、相州伝が発生するに至る。

大和国では、寺社が自衛の為に武力を持つ必要性が出てきたので鍛冶を召抱えるに至った。

この時代の本場は京都、奈良、備前であり、備前では福岡一文字が全盛であったが長船から光忠が現われて長船派が興る。

短刀も盛んに製作されるようになる。薙刀の製作も増えたと思われる。短刀は寸法身幅ともに尋常な8寸前後で内反り(度重なる研磨により内反りになったとも)である。

元寇以前は身幅の広い、重ねの厚い猪首切先の太刀が流行した。元寇によって従来の太刀に多くの欠点が暴露された。

有名工

山城の来国行、二字国俊、備前の長船光忠、長船長光、福岡一文字派、備前三郎国宗など。

主な出来事

1232年御成敗式目の制定 1274年文永の役 1281年弘安の役


鎌倉時代末期 (1290~1333年)

鎌倉末期になると元寇で猪首切先で重ねの厚い太刀の欠点が暴露された。

重大な欠点とは、猪首切先では帽子が寸詰まりで、帽子が刃こぼれをした場合に研磨ですると帽子が直ぐになくなり、太刀自体が駄目になるという事である。更に重ねが厚く平肉がつくと切断面との抵抗が大きく切れ味が落ち、肉厚故に重たいので素早い扱いが出来なくなる。また焼が弱い場合には太刀が曲がる。これらの欠点を補う新しい鍛錬法の必要性が迫られた。

地味な焼刃を焼けば実用的であるが、この時代の終わりに掛けては実用兼美の太刀が要求された。

鎌倉時代末期、相州に五郎入道正宗が現わる。彼は研究を重ねて新しく相州伝を完成させた。

相州伝は切れ味を出すために硬い鉄を鍛え強く焼き、それを急速冷却する事によって硬度を高めた。また反りが深いと振り下ろした時に力が分散するのでやや浅めの反り具合にした。平肉少なく、重ねは薄くした。良く切れるようにはなったが、このままでは鎧などの堅い物を切った場合に刃こぼれをする。これは軟硬の鉄を適度に混ぜて板目鍛えにすることによって欠点を補った。ついに相伝よって実用兼美の太刀が完成した。

これにともなって姿は、総体的に豪壮で刃肉が薄くなり刺突のために切先がのびてくる。反りは中間反りに変化する。刃文は焼幅の広い焼の強い乱刃になる。一見すると鎌倉初期の姿に似ている。また樋先は上がらず、樋先は下がっている。これは切先が損傷しても切先を下げて修理できるようにした為である。

最末期には段平造りが出現する。刃文は地味な直刃丁子、直刃、そしてのたれや互の目が出現。

相州鍛冶や正宗十哲と呼ばれる刀工がこれから南北朝時代にかけて活躍する。短刀も寸が延びて九寸位になる。

有名工

藤四郎吉光、左近将監長光、相州正宗など。

主な出来事


南北朝時代(1334~1393年)

後醍醐天皇の南朝と足利尊氏の北朝が争う戦乱の南北朝(吉野朝)時代となる。

山城伝の本場で刀剣の一大産地であった京都は戦乱の中心地であった為。山城鍛冶は地方に分散し自然消滅していった。

この時代は60年間続き、そして全国規模の争乱となると武士の武勇が高まり、敵を圧倒威圧する為に四尺や五尺もある大太刀と言われる、刀剣史上で最も豪壮長大な物が作られた剛刀時代である。長大で扱い方法が限られていたと推測でき、斬るよりもなぎ払う事が目的で製作された。

大太刀は長すぎて腰に佩くことが出来ないので背負ったり、肩に担いだり、従者に持たせて戦場に赴いたと云われている。

現存する大磨上げ無銘の刀は、主にこの時代に製作されたものである。後世に適当の長さにされ刀として使用されることになった。

この時代は相州伝が全国に広まり沸本位で焼幅の広い刃文が大流行した。皆焼や棟焼もこの頃に出現した。

志津三郎兼氏によって美濃伝が成立し、互の目の流行が始まった。

延文貞冶体配を頂点にあらゆる刀剣類の寸が延びて、大太刀、寸延び短刀、長巻きも多く製作された。

匂本意の備前伝も相州伝を受け入れて、相伝備前という作風が生まれる。

南北朝末期には大太刀などは廃れて、普通の太刀姿に戻る。

有名工

来国光、来国次、長谷部国重、越中則重、志津三郎兼氏、相州貞宗、郷義弘、長船兼光、長船景光、長船長義、左文字など。

主な出来事


室町時代初期(1394~1466年)

南北朝の争乱も終わり応永と改元された。足利時代も安定して金閣寺などが建てられる平和な時代になる。刀剣も南北朝時代のような殺伐とした長寸剛刀は廃れ平安末期、鎌倉初期の太刀を写した復古調が流行。この作風も全国に広まり応永時代の刀剣は優美で優しい姿が基本になった。

相州伝にかわり備前伝が全国的に流行した。長船では盛光、康光が優れている。

応永以降、佩刀方法が一変し武士が大小を差すようになった。抜くにも都合の良い先反りの姿が流行した。

南北朝以前は、ほぼすべてが太刀であり左の腰に吊輪で吊って佩いた。鑑定上、打刀形式は応永以前には極一部を除いて存在しないと言える。

刀は刃を上にして腰に差す。腰に差す場合、長寸では不便であったので寸が詰まっていった。また鎬造脇指の生産が急増する。

打刀とは元々は雑兵が使用した寸詰まりの刀のことをいったものである。

副用であった打刀が徒歩では便利であったので高級武将でも太刀が廃れて打刀を使用する事が普通になる。

この頃の打刀は、体配にまだ太刀の面影がある。

総体的に鎌倉時代の太刀姿に似ているが相違点は踏ん張り少なく、先反りが強いこの傾向は室町時代に共通する特徴である。

 

太刀と刀の違いとは?

太刀は刃を下にして佩く、刀は刃を上にして差す。銘は太刀でも刀でも表に切るのが普通なので反対になる。反りも反対になる。

平安、鎌倉時代の太刀は長寸で反りが深く高い品位がある。

刀は寸が短く、作為的な反りで腰に指すのによい姿で先反り気味、実用向けである。

太刀の茎は適度に反りがあり長く姿良い。また古色溢れる錆が付いている。

刀の茎は寸詰まりで太く、ほぼ無反り。

技術が進み、目釘穴は轆轤(ろくろ)を使用して開けるようになるので刀は真円に近い。

太刀や刀と種別に拘って分けるのは現代人的な発想で、当時の人々はあまり分けて考えていなかったとも思われる。

太刀拵に納めたら太刀であるし、打刀拵に入れたら刀として使用するなど。

実際に両方の拵が揃っている刀がある。昔の人は実用本位の考え方であり、区分が曖昧な用語もその為と思われる。

有名工

この時代は備前に優れた刀工が多く現れました。

主な出来事


室町時代中期(1467~1554年)

応仁の乱をきっかけに下克上、戦国の時代になり争乱の絶えない時期が100年続くことになる。京都は焼けたので山城鍛冶は不在となってしまった。しかし戦乱によって需要が増加し古刀期最後の全盛になったことも事実である。

明国向けに大量に刀剣が輸出されたがこれは数打ち物であった。これは刀剣類を買い占めて和寇に武器が回らないようにした治安対策、あるいは実際に明においても需要があり主要輸出品として輸出されたとも言われていますがどちらにせよ当時、不信であった鍛刀界には良いことであった。しかし応仁の乱以降の数打ち物の生産増加(粗悪品の濫造)の要因になった。この為に応永期に見られた古作への回帰という点が忘れられて鍛錬技量の低下の要因になったとも考えられる。

ちなみに束刀、数打ち物は1束幾らと売られていた。

徒歩戦が主流で刀は屋内でも使用できるように2尺2寸前後の頑丈な片手打ちが流行する。短刀は先反りのもと護身用の懐剣が作られた。両刃の懐剣もある。また大量の需要に応じるために数打ち物と呼ばれる粗製品が大量に生産された。

誰でも訓練なしですぐに扱えるという実用性が見いだされて槍の生産が急増。

この頃から末古刀期になる。高級武将などの注文による作は入念で現在の評価は極めて高くなっている。

有名工

和泉守兼定、兼元(孫六)、伊勢の村正、備前勝光、備前祐定、備前清光

主な出来事


室町時代末期(1555~1595年)

織田信長が長篠の戦いで鉄砲を有効に使用して武田騎馬軍を壊滅させたことにより戦闘方法が一変する。*(長篠の戦の軍団編成や鉄砲の使用例は諸説ありますが)鎧も隙間のない物になり、これに対抗する為、刀は寸が延びて豪壮になった。これにより寸詰まりの片手打ちは廃れた。

鎬が高い造りが多く、平脇指が流行した。身幅広く、先反りで重ね厚めでふくらが枯れる。

刀剣の一大産地の備前が洪水によって甚大な被害を受け古刀備前伝が終焉。

美濃伝の躍進。

新刀の基礎を築いた刀工が生まれたのもこの年代。身分制度が大きく変動した時代、代々鍛冶でない家柄からも刀工になる者が増えてきます。

有名工

最上作に列する刀工はいませんが、前時代に活躍した刀工の子孫に技量の高い者が多くいました。

主な出来事


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